2006年12月29日

そもそもこんなときに自転車に乗ろうという発想が間違っているわけだが

 昨今の「自転車は車道ではなく、歩道を走るように法改正しちまおう」という警察官僚の動きに対して、
「本来、自転車とは軽車両であり、道路交通法の基本理念に照らして考えれば、道を走るときは歩道ではなく、やはり車道を走るべきである」
 と主張する自転車愛好家(サイクリスト)な方々の考えに日頃はそれなりに共感を覚えるほしみさんであるが、“どか雪が降って一面パウダースノーの銀世界。かろうじて幹線道路の車道のみが自動車の轍の形に荒れた圧雪面が露出している”という状況下で、その圧雪ででこぼこになった轍の上を車輪幅の狭いママチャリでのたのたと走っている自転車ツーキニストのおっちゃんの後ろをたらたらと自動車で追走していると、
「自転車で車道なんか走ってんじゃねーよ、この(以下、 3 キロバイトにわたって罵詈雑言が続くので省略)」
 ってな殺意にも似た激情を覚えてしまうのは決して理不尽ではないと思うのだけれど、読者諸兄はいかがお考えであろうか。
ニックネーム 星海航平 at 12:34| Comment(1) | TrackBack(0) | 思想

2006年10月13日

逆撫で

非モテ話は環境起因と性格起因を切り分けたほうがいい

 以前に当 Blog で非モテ系の話題に言及した際、コメント欄で
恋愛するつもりのないお前に恋愛を語る権利なんぞない。どうにかしたいんだったら、部屋に引きこもってないで、外で人にたくさん会え!」
 と断言されてしまったので、極力この種の話題は避けて通るつもりだったのだけれど、一言だけ。
 上記の説に従うなら、ほしみさんのケースはほぼ間違いなく性格起因である。環境を変えたって、問題の解決に関しては無駄である可能性が高い。
 なんだ。それなら別に部屋に引きこもってオンライン RPG ばっかりやってても構わねェじゃん。
ニックネーム 星海航平 at 11:14| Comment(4) | TrackBack(0) | 思想

2006年10月04日

性(善|悪)説

善意が人の目を眩ませる

 自戒自戒。
ニックネーム 星海航平 at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想

2006年10月02日

非モテ史観

 裏寂れた日陰モノの存在である当 blog にしては珍しく、各方面にいろいろと反響があったので、もう少し非モテについて考察してみたい。
 いや、しょぼいブロガーにとってはやっぱりそれなりのアクセス数やまっとうなトラックバック、メールでのご意見は記事を書くための精神的燃料になるんですわ(苦笑)

 さて、今まで偉そうに非モテ論を展開した結果、頂いた反響としては、
「何か自分がモテないと勝手に凹んでるけど、非モテっていったいどうしたいわけよ?」
 だとか、
「異性を何だかまったく別種の生物みたいに恐れてるな。それなら別にモテなくてもよくね?」
 みたいなものがあった。どうも当方とは違い、モテ側から非モテ側への感想である。
 こんな意見そのものが非モテをモテと別種の生物として峻別しているわけだが(苦笑)、考えてみるとそもそも非モテなる存在は昨日今日になって急に発生した新生物だとは判断し難い。生物学、解剖学の観点から考えても、現生人類はここ十万年以上大きな変化がないのだから、その一属性である非モテだって昔から居たはずである。非モテは古来から連綿と続く歴史的存在なのだ。人類の歴史を紐解くと、まれに生涯童貞を貫いた天才の存在が記録されている辺りにそのことを垣間見ることができる。
 しかし、過去に於いては非モテは大した問題ではなかったとほしみさんは考えている。昔の人は別に自分が非モテであっても思い悩むことなどなかったのだ。古来、非モテが存在していたことはほぼ間違いないのに、“古・非モテ”がそのことを嘆く文献等の記録は思いのほか少ないことがそのことを証明している。それが今や一生を左右しかねない大きな障壁として、非モテの眼前に立ち塞がっている。 Blog 検索するとキーワード「非モテ」がヒットしまくるのは前述の通りである。こんな事態が惹起したのはいったい何故だろうか?

 謎を解くキーワードは恋愛結婚であるとほしみさんは推測する。
 話題を人類全体に敷衍するとややこしくなるので、ここからは話を日本国内限定にさせてもらうが、現代の日本に於いては恋愛結婚とが密接に関係しているのは万人が認めることだと思う。事実、結婚の形式は恋愛結婚が主流である。
 恋愛は個人と個人とが1:1で行うものだが、結婚はそうではない。結婚とは個人と個人とが番い――すなわち夫婦を形成して家族として子を育み、社会の一構成要素として活動することを社会全体として認証する手続きである。社会的な生物である人類が円滑な社会活動のために案出した社会システムのもっとも基本的な要素だ。現在の日本に於いてはごく個人的な私的活動である恋愛と、社会的活動である結婚とが密接に関連しているのである。結果的にどうなるのかはともかく、恋愛できるかどうかが結婚できるかどうかの試金石になっている。

 だが、過去に於いてはそうではなかった。明治維新以前の日本では、恋愛と結婚はほとんど別のものであった。太平洋戦争以前でも、ほぼそうだったと断言して構うまい。自身の恋愛感情とはまったく別に、結婚相手は親や一族郎党が定めた相手となるのが一般的だった。結婚とは家と家との間で定められ、行われるもので、当人がモテだろうが非モテだろうが、たいていの場合、結婚だけはできたのである。
 これは社会の構成基盤が第一次産業――農業や漁業に依存していたためだと思われる。第一次産業は大自然を相手に長い時間的スパンで展開される産業である。大自然の前では、個人の能力の多少の差など意味がない。いかに優れた農耕者であっても旱魃があれば手の施しようはないし、海面が沸くほどのいわしの大群が押し寄せれば、ボンクラの漁師だってそれなりの漁果を得ることができる。
 こうした社会全体の幸福量を最大化するには、村全体で一致団結して大自然に対抗するほかない。そのための方策として、村社会の構成要素である夫婦、家族は「家」と言う大きな単位で系統立てて構築された。村全体で取り組む灌漑事業を成功させるためには、多少冴えなくても庄屋の息子に嫁があてがわれる必要があったし、漁業船団の人手を維持するために、どんくさい女の子にもそれなりに嫁の口があった。そうしなければ、「家」――社会全体が回っていかなかったためである。村社会は多少品質(モテか、非モテか)に問題があろうが、労働力の数を揃え、長いタイムスパンに耐えていくために夫婦を作り、子供を産ませ育てさせなければならなかったのだ。本人が持つ恋愛の才能――モテ/非モテの別に関係なく、結婚関係を強制的に構築させる社会的圧力が存在していたわけだ。

 しかし、産業革命以降の工業化の進行によって、こうした社会は変質して行った。鉱工業を主力とする第二次産業は自然災害などの影響を受けにくく、またその活動サイクルも年単位ではなく、月とか日単位で区切られることが多い。そうした場で何より求められるのは“均質で能力の高い労働力”である。短期間に、かつ機械的に進められる作業では、個人間の能力差が響いてくるのだ。工場では、仕事に従事する従業員の労働力の質に拠って歩留まりに違いが生じる。きちんと識字能力があって作業マニュアルの意味を読み取れる従業員の個人能力が高く評価され、逆に無能者の縁故による社会的立場の優遇は忌避される。優れた個人の能力の集積が工業化社会に於ける幸福量の最大化に貢献するのである。
 こうした工業化社会の要請に従って発明されたのが《核家族》だろう。血縁によって系統立てられた《家社会》と違い、核家族の構成要素は夫婦とその子たちだけである。面倒な縁故のしがらみを切り捨てて、質の高い労働力の生産と育成だけに特化したのが核家族である。
 核家族は血縁によって繋がった「家」と言うシステムを切り捨ててしまったので、社会の重要な構成要素である夫婦を構築していた「家と家との関係」という社会的圧力も消滅してしまった。当然、それに代わる社会システムが必要になったわけだが、工業化社会はそこで非常に安易な方法を選んでしまった。

「お前ら、工場の中でひとまとめにして置いておくと、勝手にお互いに好きになったり、嫌いになったりしてるみたいだから、好きになった同士で夫婦になれや」

 この方法である。個人の能力が尊重される核家族社会に於いては一種当然の流れだったのかも知れない。
 ともかく現代日本社会は恋愛結婚が結婚の主流となった。今まで結婚と言う社会システムと大きく関わってこなかった恋愛の能力、才能が結婚する――社会で一定の地位を保証されるために必須になったのである。夫婦となって子をなし、それを育てていくと言う、社会の構成要素としての個人に必ず必要な手続きに、「モテる」必要ができたのだ。
 従って、恋愛結婚社会に於いて「別にモテなくていい」と決断することは社会的動物である人間の大事な部分を自分から捨ててしまうことと同意である。人として社会的活動を継続していくためには、この決断はあり得ない。恋愛の才能に恵まれない非モテであっても、自分の属する社会に於いて一定の地位を得たいと言う社会的欲求は存在する。だから、「モテたい」と欲望するほかない。
 しかし、非モテとはその恋愛の才能が欠如した存在なのだから、その欲望が満たされることはない。二律背反(アンビバレンツ)である。思考の袋小路に迷い込んだ結果、非モテは自身の存在を戯画化して、自嘲するほかないのである。
「(俺|わたし)は非モテだから」
 という言葉は、
「わたしは現代社会に於いて一定の地位を得るために必要な基本的能力が欠如した出来損ないです」
 という意見表明とほぼ同意である。これは傷ついた魂から滲み出る血のようなものだが、第三者からはどう対処のしようもない。
 その意味でも、モテな方々に於いては非モテな連中の自爆ネタは華麗にスルーするようにお願いしたい。

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ニックネーム 星海航平 at 13:29| Comment(6) | TrackBack(0) | 思想

2006年09月30日

試験に出る非モテ論

 大方予想した通り、昨日のエントリー「非モテ論」は昨今の当 Blog のエントリーとしては珍しく、三件もコメントがついた。エントリーそのものへのアクセスもそこそこにあったようである。
 そこで、昨日のエントリーに対する補遺として、モテ者が非モテ者に対してよく用いるレトリックに関して、追加考察しておく。

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ニックネーム 星海航平 at 11:33| Comment(2) | TrackBack(2) | 思想

2006年09月29日

非モテ論

 非常にキャッチーなタイトル(笑)だが、昨日のエントリーに関して、考えたこと。


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ニックネーム 星海航平 at 10:17| Comment(3) | TrackBack(2) | 思想

2006年09月14日

ハナっから気づけよ

〈お知らせ〉

 「ココの心理判定ってよく当たるよ〜。あたしも判定してもらったけど、コレって当たってる〜」などと言いつつ、複数の「××判定」だの「○○判断」だのと称する WEB ページを考えなしにぽんぽん紹介している WEB 日記やら Blog やらをよく見かけるのだけれど、ココを見て小一時間反省していただきたい(苦笑
ニックネーム 星海航平 at 13:57| Comment(1) | TrackBack(0) | 思想

2006年06月28日

このところあまりやらかしていないけれど

何で積むほどエロゲ買うの?

 弱小のブランドはいつの間にかさくりと、いとも簡単に消滅してしまう。後から入手しようと思っても、後の祭りである。
 要するに、「欲しいときが買い時」ってこった。
ニックネーム 星海航平 at 11:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想

2006年06月20日

死ねばいいのに(無知蒙昧篇)

質問:痛車(アニメのステッカーを張った車)についてどう思いますか?

 この設問に対して、
宮崎勤事件以来、アニメおたくは怖い人種です。
だの、
あーこういう奴がが、少女誘拐などの犯罪おこすんだろうなー、と思います。
なんてまったく見当違いで無知蒙昧な回答を返せる連中の感性を疑う。
 まったくこいつら、ホントに××(検閲により削除)なんじゃねェのっ!?
 幼い女の子を誘拐して殺しちゃう変態さんなんかより、血の繋がった実の娘を虐待して殺してしまう××(検閲により削除)な親の方が統計的に有意に数が多いっつーの。痛ましい幼児の死亡を減らすのなら、臆病な変態さんを取り締まるより、日当たりのいい駐車場に停めた車の中に自分の子供を放置して、パチンコに興じている××(検閲により削除)な親を取り締まった方が百万倍有効である。立場が微妙で批評しにくい相手からは目を逸らして、とりあえず叩きやすそうな弱者の方をつるし上げる“弱い者いじめ”をさもしたり顔で語る連中には反吐が出る。
 己の趣味と信念、ライフスタイルに従って痛車に乗っているヲタさんより、事の本質を理解せずに偉そうな(でも、まったく見当違いな)意見を吹聴している連中の方が、見ていてよっぽど痛々しいと思う。
ニックネーム 星海航平 at 09:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想

2006年06月16日

“プロ”の“仕事”

『プロな人』と『アマな人』の違い

 おなじみの、世界を単純に二つに分けてしまう二元論。……なのだけれど、「プロとアマ」という視点と、実際に取り上げている事例とが上手くマッチしていなくて、かなりちぐはぐである。全然プロとアマとの違いの話になっていない。この記事自体がすでに“アマの仕事”臭を漂わせている。
 これなら、むしろ「仕事、していますか?」という記事にある「仕事と生業」の視点の方が正解に近い気がする。
ニックネーム 星海航平 at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想

2006年06月06日

秋葉原アンダーグラウンド

エターナル・アヴァロン −永遠の快楽−

 おなじみヘルシングの大佐ネタコピペ。
 激しくワロタ。
ニックネーム 星海航平 at 10:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想

2006年05月31日

テレビ視聴は今でもこのくらいならできる

テレビ視聴はこれからどうなるんだろう

 そしてテレビ視聴に関して、今いちばんあって欲しいのは、友達やネットであれは面白かったと評判になった番組を、見られるようにする装置なんだよね。
 この件についてだが、すでに放送されてしまった番組を後になってから「みんなに評判だから」と追っかけで見られるようにするのはいろいろな意味で難しい。未だに商業的に大成功した VOD サービスの定番は現れていないし、放送並みに手軽にコンテンツそのものをユーザーの元へ届けるシステムも現存していない。著作権的にも、個別に必要なユーザーにのみ番組コンテンツを配信するのは面倒な問題が多そうである。
 けれど、それにかなり近いことは、実はすでに現実の製品レベルで可能になっている。東芝の RD シリーズのうち、新し目の世代機に搭載されている「おすすめサービス」機能である。これはまだ放送はされていないけれど、『どうもこいつは面白そうだ』とみんなが録画予約をしかけまくっている評判の番組を、『貴方は録画しなくてもいいですか?』と勧めてくれるサービスである。
 RD シリーズには放送電波による通常の EPG のほかに、インターネット上のテレビ番組サイトから番組情報を取得する iEPG 機能を持っている。家電製品のくせに標準装備しているイーサネットコネクタを介して、インターネットへ直結できるようになっているのだ。そして、 RD シリーズは自身の番組の予約状況を専用のサーバに送って統計処理してもらい、その結果を番組予約ランキングとして配信してもらえるようになっているのだ。ユーザーが過去に録画した番組の傾向から、今後放送される番組のうち、趣味に合致しそうな番組を教えてくれたり、多くの他ユーザーが録画を設定している番組をジャンル別にランキング形式で確認することができる。これによって、これから放送される番組のうち、前評判の高い番組を容易に録画予約できるのである。これなら、実際にやり取りされるのは番組の予約情報だけで、番組コンテンツそのものはすでに権利的にクリヤーな放送電波から取得できる。
 事前には全然噂にもならなかったけれど、いざ放送されてみたら大人気、という番組に対してはどうしようもないが、少なくとも前評判が高いものに関しては充分に対応可能である。
 「ある日、すべての夢が全部現実になる」というのが世界の望ましい姿だが、「とりあえず今できることだけでも、今使える技術だけで実現する」のも賢い大人の態度として大事なのだと思う。
ニックネーム 星海航平 at 17:08| Comment(1) | TrackBack(0) | 思想

2006年05月01日

米中、若し干戈を交わさば

中台戦争

 狐の王国さんの「アメリカ軍は中国軍に勝てないのは世界の常識」なる記事経由。
 ほしみさん的にも、狐の王国さん側の意見を支持するなァ。確かに近年、中国はものすごい勢いで軍拡しているみたいだけど、それでも「米軍と勝負したら、中国が勝つのが世界の常識」って言われても。

 中台戦争が勃発したと仮定すると、その主たる戦闘はどう考えても台湾海峡に於ける水上戦闘と、その後に惹起する台湾島上陸戦である。大陸側の戦意を挫くために台湾軍及びそちら側につくことが確実な米軍が大陸へ逆上陸を敢行するシチュエーションも考えられなくはないが、何も好き好んで大陸側が準備するであろう縦深陣の只中へ誘い込まれてやる義理はないだろう。十三億の人民を蹂躙して、北京に攻め上がらなければならない必要性は低い。となれば、戦争の趨勢が定まるのは正規軍の水上艦艇同士が真正面からぶつかり合うガチンコ勝負でほぼ決まっている。要するに、二十世紀型の正規軍同士のぶつかり合いだ。
 確かに米軍はベトナムや中東で、満足に軍服すら着ていない非正規(ゲリラ)兵相手の殲滅消耗戦では負け続きである。しかし、今回考えているのはそうした低強度戦争(LIW)ではない。正規軍艦艇同士の水上戦闘ならば、原子力空母やイージス艦を機動部隊単位で複数運用する米軍に勝てる軍組織は未だ地球上に存在していない。何より物量とその質が他と違い過ぎる。いかに中国が軍事費を増やそうと、ソヴィエト製のミグや AK のコピー品だらけの人民解放軍をハイテク兵器満載の米軍並みにグレードアップするには十年でも足るまい。核でも持ち出してくれば話は別だが、六十年の及ぶ冷戦期間中に、結局米ソ双方がそのカードを引けなかったことから考えても、誰であってもそのトリガーを引けないことは自明だろう。
 となれば、米軍を味方につけた台湾が防衛戦のみに専念すれば(「大陸側が仕掛けてきた侵略を振り払う」という大義からすると、そうならざるを得ないわけだが)、大陸側が上陸作戦を敢行することはほぼ不可能に近く、その結果、戦線が膠着して国際的に追い詰められる(要するに負ける)ことになるのはまず間違いなく大陸側だろう。旧世紀と違って、現代に於いて侵略戦争をしかけ、それを正当化するのは(今、アメリカがイラクで直面しているように)至難の業である。
 二十一世紀になったからといって、戦争の形態が無条件に LIW になると決め付けるのはそれこそ常識的ではないと思うのだが、いかがなものだろうか。
ニックネーム 星海航平 at 14:33| Comment(1) | TrackBack(0) | 思想

2006年04月13日

If people can speak, they don't fight.

感動のアフガン物語

 いったいどこの誰だ? 携帯電話が軽薄で殺伐した現代社会の元凶みたいに言ってたヤツは。
 本当の元凶は使ってるモノじゃなくて、使ってるヒトなのだという当たり前の話。この事例のように、携帯電話があるおかげで殺伐としなくなった状況が実在するわけだから。
ニックネーム 星海航平 at 13:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想

2006年03月27日

隠されたパラメータ

 二十一世紀になって、わが日本からほぼ絶滅した美点の一つに“行儀作法”があると思う。
 行儀作法と言っても大げさな話ではない。他人に不快感を与えないための、ちょっとした心遣いのことである。普段の挙措にほんの少し気を遣うだけで、所謂“品の良い”雰囲気を醸し出すことができる。
 先年亡くなったほしみさんの母親は恒常的に差別的発言を繰り返し、隣近所との諍いが絶えない、正直に言って決して誉められた人物ではなかったのだけれど、そんな母親をほしみさんが尊敬でき、感謝している数少ない点のひとつが子供であるほしみさんたちに、徹底して基本的な行儀作法を叩き込んでくれたことである。それも、子供相手に細々した理屈を論じていては何事も始まらないからと、教育ではなく、“調教”を施してくれた。
 例えば食事中、ほしみさんがついうっかり食卓に肘を付いてしまおうものなら、問答無用でその肘を箸箱でぶっ叩かれた。箸を持った右手でそのまま汁椀を掴み上げようものなら、比喩でなくぶっ飛ばされた。まして箸先を使って器を手前に引き寄せるなど、言語道断である。そんなことをしようものなら、それはもう素敵な家庭内暴力の嵐 (^ー^; が吹き荒れた。食事をしながら雑誌新聞を読むのはもちろん、食事中はテレビを観ることですらやめるよう言われた。
 そのとき、常用された言い回しが、
「そんな行儀の悪いことをするんじゃない」
 であった。
 ――理屈抜きに、他人はほんのちょっとした些細なことで人の品性を評価するものなのだから、気をつけないといけない。
 母親の主張はこうだった。
 如何に優れた業績を挙げた人物であっても、その行儀が悪ければ、人は評価してくれない。どんなに遺業を成し遂げていても、ほんのちょっと行儀が悪いだけで、品性の卑しい人物だと見なされてしまう。それならば、くだらないことで人物評価を落とされてしまわないよう、ちょっとした心遣いをきちんとやった方がよい、という論法である。
 しかも、恐ろしいことに行儀の悪い人は自分が行儀が悪いのだということを認識できないのだという。行儀のいい人は他人の行儀が悪いことがわかるが、行儀の悪い人は自分、他人含めて行儀の良し悪しがわからないらしいのだ。つまり、行儀作法がきちんとできていなければ、自分の知らないうちに行儀の悪い人物として自己の評価がいつの間にか低下している事態が考えられる。それならば、自分の行儀が悪いことを認識できる程度には最低限のことを習得しておかなければならない。
 幼少の頃からこうした教育方針で育てられたほしみさんは、おかげで食事中に食卓に肘をつくことはまずないし、左手はまず必ず器に添えるようにしている。それも、ほぼ無意識にできる。万一、そのガイドラインから逸脱してしまった場合も、条件反射で「自分は今、下賎な行いをした」という罪悪感が自動発動し、行動の抑制が働く。これこそが母親の“調教”の賜物である。

 そんな風にきちんと調教されたほしみさんにしてみれば、こんなことは誰でもできて当たり前のことだと思うのだけれど、改めて世間を見回してみると、意外にこれがきちんとできている人物が少ないのである。やはり母親の主張通り、行儀の悪い人々は自分たちのことを認識できていないようだ。
 特に、昨今の子供は目を覆わんばかりの惨状を呈している。試しに、回転寿司の店やファミリーレストランに入ってみるといい。行儀もクソも、そもそも人としての基本的な行動抑制すらできていない小さなケモノどもが奇声を発しながら店内を走り回っているのはもはや珍しい光景ではなかろう。良く見ると、そのガキどもを“調教”すべき若い親たちがすでにテーブルに肘をつき、だらしない格好でだらだらとくっちゃべっていたりする。お前らは親にきちんと、
「口の中に食べ物を残したままで、べらべらおしゃべりをするんじゃありません」
 とゆー行儀を叩き込まれてないんかよ?

 そんなわけで、まったくの見ず知らずの親子であっても、この様子を見ただけでほしみさんの彼らに対する評価は何段階か無条件で低下する。もし万一、彼らと何らか接触する機会があったとしても、最初から「相手は下賎な人物なのだ」という前提に立ってしまう。彼らが仕事で如何に優れた業績を上げ、社会的に評価されるべき人物であろうとも、“行儀ができていない”というただその一点だけで、彼らは貶められるに足る俗物であるとほしみさんは判断する。
 彼らからするとほしみさんの思考は理不尽な差別に映るかも知れない。しかし、それは彼らが自分たちの行状を理解できていないからである。人と交わるにはまず礼を尽くすことから始めるべきで、それを目に見える形にまとめたものが行儀作法なのだ。であれば、その行儀作法ですら守れない連中は評価しようがない。
 ほしみさんは決して貴顕の出ではないが、少なくともその点に気づけただけで多少はマシなのだ、などと漫然と考えた平日の昼下がりなのだった。
 ――いや、昼ごはんを回転寿司の店で摂って、例として挙げたような事態に遭遇したのヨ(苦笑
ニックネーム 星海航平 at 14:03| Comment(1) | TrackBack(0) | 思想

2006年03月15日

オタクのダーウィズム

都会のオタクと田舎のオタク

 田舎モンがオタクを続けていくには、都会モンと比較すると、越えないといけない余計な壁があるよね、っつー話。
 ただし、実際に現象として確認し得るのは“余計な壁”が存在するという事実だけであって、それがオタクがオタクであるための障害となり得ているのかどうかは大いに疑問である。

 現在、日本の人口はおよそ一億二千万人であり、首都圏に居住する人口は約一千二百万人であると言われている。つまり、日本の人口の約十%、十人に一人が首都圏人であるとおおよそ考えることができる。
 そして、前出の通り、地方人に比べて首都圏人の方がオタクを続けていくには恵まれた環境に置かれていると考えられる。アキバがあるのも、コミケが開催されるのも、みんな東京だ。
 もし、オタクとして恵まれた環境に置かれることがオタクになることと相関関係にあるのならば、地方より首都圏の方が人口全体に対するオタクの比率が大きいはずである。単純な人口比に見合った十%などといわず、オタクの半分が首都圏出身者で占められてもおかしくないはずだ。地方と首都圏には、そのくらいオタク・コンテンツの供給能力差がある。
 しかし、ほしみさんは寡聞にして東京者の方が田舎者より有意にオタクが多いという話を聞いたことがない。むしろ、根っからの東京者より、就職なり進学なりで上京した“元・田舎者”の方がほどの悪いヲタさん道へ堕ちる可能性が高い気がする。供給される側から供給する側に回ったオタク方面のクリエイターについてそのプロフィールを考えてみても、首都圏出身者が地方出身者に対して有意に多いとは思えない。逆説的に考えれば、日本人は十人のうち九人までは非首都圏出身の地方人なのであり、その比率が特にオタク方面に関してだけ統計的に傾斜しているようには感じられないのだ。その比率は人口比なりの十%か、そこから大きく逸脱しないレベルにあるように思われる。どちらかと言えば、地方出身者が多過ぎるくらいだ。

 それでは、なぜオタク・コンテンツの供給という点で不利な地方でオタクの発生率が低下しないのだろうか?
 真っ当に考えれば、充分なオタク・コンテンツの供給が行われる首都圏の方が地方より、より楽にオタクになることができるはずである。であれば、首都圏の方が有意にオタクが多くてもいいはずだ。なぜ、敢えて環境の厳しい地方で、首都圏に負けないほどのオタクが発生するのだろうか。

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ニックネーム 星海航平 at 22:11| Comment(4) | TrackBack(0) | 思想

2006年03月09日

レス返し

ゲーム脳問題:見ても見えない、聞いても聞こえない

 どうやらほしみさんの書いた「社会的使命感とやらに燃える人物に、ろくなヤツはいない」という記事に言及していただけたようなので、お返事というか、感想をば。本来、ほしみさんは議論とかディベートとかいった類の代物は苦手なので、きちんとした返事になっていない気もするけれど。

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ニックネーム 星海航平 at 21:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想

2006年01月30日

衆愚国家

金持ち、勝ち組、インテリはテレビなんか見なくなった via 佐倉通信

 今どきの日本でテレビのバラエティ番組なんか観てるのは民度の低い負け組のガキとおばちゃんだけだ、という大橋巨泉の意見。
 たかがテレビ屋のくせに不必要に態度が尊大な大橋巨泉はほしみさん、好きくないのだけれど、主張する意見の大意には同意する。
 ほしみさんも決して勝ち組というわけではないが、それでもニュース、天気予報以外のテレビ番組はほとんどリアルタイム視聴しなくなったもんなー。 CATV のおかげで視聴可能なチャンネル数は増えたけれど、必要な番組は全て HDD ビデオレコーダに録画してタイムシフト視聴している。従って、チャンネルをザッピングしながらただ漫然と画面を観ることがほとんどないのだ。
 特に、画面の下四分の一にばかでかい文字テロップが常に表示されているような、バラエティ番組と称する頭の悪い公共電波の無駄遣いなどは意図して視聴しないように心がけている。もちろんあの種の番組に出演している“若手芸人”と称する連中も、ほとんど評価していない。いや、あいつら“芸”人じゃないし。タレントって言葉の本来の意味は“才能”だという事実をボートクしてると思うわけデスよ。巨泉は彼らのことをを「芸もなく、裸を晒しているストリップ嬢」呼ばわりしているわけだが、ほしみさんはむしろ「ストリップ嬢と同じだとーッ!? ものすごい勢いで影山莉奈に謝れッ!!」と主張したいくらいである。
 あんな志の低いコンテンツを見続けていたら、自ら負け組に志願するようなものだと思うのだけれど、最近のヤツラの考えていることはわからないなあ(典型的な年寄りの繰言)

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ニックネーム 星海航平 at 10:33| Comment(1) | TrackBack(0) | 思想

2005年11月25日

バージョンナンバーに関する考察

 最近、 IT 業界では「Web 2.0」などと言って、「なんとか 2.0」と表記するのが流行りなよーである。そして、流行りだしたかと思ったら、「Web 2.0 は終わった」などとも言われている。
 しかし、ちょっと待って欲しい。そもそも「2.0」というバージョンは最初から使い物になるわけがないのだ。終わって当然である。 NEC PC-9801 用の MS-DOS の頃から、使い物になるのは Version 2.11 からという伝統的な法則が IT 業界にはあるのだ。
 以下、バージョンナンバー毎にほしみさんが受けるイメージの大まかな傾向。
0.x
 アルファだのベータだのと呼ばれる段階。まだシステムを作り始めたばかりなので、きちんと形を成していない。当然のように機能は低く、なおかつ安定動作しない。初めの頃は景気よく 0.1 → 0.5 → 0.7 と数字が上がって行くが、 0.9 辺りから 0.91 → 0.92 → 0.921 → 0.922 → 0.992a とセコくなっていく。
1.0
 いつまでも 0.x のままではいられないので、 1.0 RC1 などとゆー姑息な手段を取った後、仕方なくリリースされるもの。整数番号になって、なんとなく「完成したもの」というイメージを持つが、実際には全然完成していない。仕方なく出したものなので、当初想定された機能のうち八割くらいしか実装されていない。当然バグバグで、安定動作など望むべくもない。致命的なバグでコケまくる。
1.2 / 1.3
 1.0 があまりにも酷いので、急遽リリースされる修正バージョン。あまりにもバグが多すぎるので、 1.1 はリリースしている暇がない。取り合えずヤバいバグを潰すのが最優先の目的であるため、機能が拡張されることは少ない。
2.0
 取り合えず 1.x がそこそこ安定して動くようになったので、当初の目論見に従って、足りてなかった機能をどーんと足したもの。当然、どーんとバグも足されている。
2.1
 2.0 になってから足されたバグを修正したもの。ただ、基本機能については 1.x 時代にかなりバグ出しされているので、極端に深刻なトラブルは発生しない。
2.11
 2.1 がかなりいい感じに安定して使えるのだが、微妙に居心地の悪い部分が若干残っているので、それを微調整したもの。かなり安心して使える。
 というわけで、「なんとか 2.0 が終わった」という結論に達するのは当然の帰結である。それなりに安定的に使い物になるのはやっぱり 2.11 辺りからなのだ。
 ちなみに、 MS-Windows は 3.1 辺りからブレイクして。 95 で広く使われるようになったが、タイリングウインドウ表示の Version 1 / 2 はほとんど使われている姿を見ないうちに市場から消えてしまったので、ほしみさん的にはまとめて 0.x もしくは 1.x 扱いである。で、 Windows 3.x が 2.0 、 95 が 2.x という感覚。 95 の OSR2 から USB がサポートされ、ようやく使い物になるようになったという印象なので、これまた「 2.11 辺りから使い物になる」という理論の傍証っぽい。
ニックネーム 星海航平 at 12:59| Comment(3) | TrackBack(0) | 思想

2005年08月25日

会話と対話と意見

意見を述べるということ

 「自分の書いたブログに理解不能な××××(保身のため、伏字 (^ー^; )が突撃してきてしまう」という事態を考察する上で有用だと考えられる意見。
 なんか、こんなにごちゃごちゃと深く考えなければブログを書けないとなると、知恵熱が出て寝込んでしまいそうだ。
 しかし、この思考レベルをクリアーできてないヤツはいつか炎上の憂き目に遭うのだろう。自戒、自戒。

 ……それにしても、このところ“思想”カテゴリー / “ライフスタイル”ジャンルの記事エントリーが多いな。
ニックネーム 星海航平 at 17:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想

2005年08月25日

存在して欲しくないモノ

ネットの「影響力」について

 先日言及した
ブログには読者がいて、しかもそれを記述者の側から制限することはできない。インターネットに晒されている限り、常連さんばかりではなく、アフォもやって来る。
の具体的な実例。
名誉毀損は犯罪だ。開き直るのなら対話は成立しない。法廷でお会いしましょう。
って、【実録】ネコ裁判に登場する(仮名)川畑氏並みの短絡思考だ。いったいどういう思考経路を経れば、このような激発的行動につながるのだろうか。ほしみさんには理解できない。

 この種の人種と関わりたくなければ、もっぱら「沈黙は宝」である。
 とは言え、何らかの情報発信を行って世界との繋がりを持っていたいという欲求に従って、こうやってブログを書いているわけで。
 結局はバランス感覚、というありがちなオチに達してしまうほしみさんなのであった。
ニックネーム 星海航平 at 13:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想

2005年08月24日

めもりんQ

クリリンの事かーッ!!

 ブログの記事を記述する上で配慮しておいた方がよいことについての考察。
 忘れがちなことなのだが、ブログには読者がいて、しかもそれを記述者の側から制限することはできない。インターネットに晒されている限り、常連さんばかりではなく、アフォもやって来る。記事を書くからには、色々と考えて書かなければならない。
 例えば、このブログの中で、ほしみさんが仕事上の愚痴をできる限り書かないようにしてきたのに気づいた人、いました?
ニックネーム 星海航平 at 09:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想

2005年08月18日

一人称代名詞に関する考察

 八月十三日の記事に対して付けられたコメントにちょっと興味を引かれたので、それに対する意見を少し書いてみよう。
っていうか、そもそも1人称にさんづけってので終わってますね。
 この一文である。

 著述者本人を表す一人称代名詞は英語に於いては、ほぼ「 I 」ただ一つである。それに対して、日本語では様々なものを用いることができる。さすがは私小説の長い伝統を持つお国柄である。
 ちょっと考えただけでも、
  • わたし
  • わたくし
  • あたし
  • ぼく
  • わし
  • あっし
  • おいら
  • 手前
  • わらわ
  • 吾輩
  • 麿
  • (それがし)
 等々、様々なものを挙げることができる。それぞれの言葉は付加的に様々な意味を有しており、言外に本人の社会的、精神的立ち位置などを想起させる。複数ある一人称代名詞のうち、どれを用いるかという選択そのものがすでに著述上の演出である。

 そこで、ほしみさんの用いている一人称代名詞であるが、お分かりの通り「ほしみさん」である。そもそも一般的な代名詞ではなく、「ハンドル名(しかも、ひらがな表記)」+「さん」付けという変則的なものになっている。何故にこのような変わった表記法を用いているのかというと、ちゃんとそれなりの意味、意図がある。
 前述したように、日本語の一般的な一人称代名詞には言外に著述者の社会的立ち位置情報が含まれているのだが、それを排したいという考えがまずあった。以前に「俺様」という一人称代名詞を使っていて、「尊大な印象を受ける」という指摘を受けたからである。そこで、客観的事実であるハンドル名を用いようと考えた。
 しかし、それはそれで問題があった。
 多くの方がすでにご存知の通り、ほしみさんがオンラインで用いているハンドル名は小説執筆時に用いているペンネームと同じ「星海航平」である。が、姓である「星海」を「ほしみ」ではなく、「ほしみ」と誤読されることが多いのである。「一般的な読み方ではないじゃないか」という意見もあるだろうが、それはそれで“著述上の演出意図”がないわけではないので、承知してもらうほかない。とは言え、文章記述上頻出する一人称代名詞が難読語なのは問題である。
 この二律背反(アンビバレンツ)を解決するために選んだのが読み仮名表記する方法であった。一般的に、読み仮名を表記するには二つの方法がある。
  • カタカナ表記
  • ひらがな表記
である。
 どの表記法を使うかによって、文章から受ける印象は微妙に異なる。カタカナ表記はソリッドで硬いイメージがあり、ひらがな表記は優しく、柔らかく感じられる。
 読者に対する攻撃的印象は避けたいと考えたほしみさんはひらがな表記を選んだ。さらに、どうせ柔和にするならと、後ろに「さん」を付けることにした。単に「ほしみ」と姓のみを記述するより、「さん」付けした方がより腰が低い印象を読者に与えるだろう。

 ――とまァ、ことほど左様な思考経路を経て「ほしみさん」なる一人称代名詞の使用は決定した。それなりに読者に与える印象などを考慮した結果なのである。
 その一人称代名詞を、十年一日で周囲から如何に指弾されようと唯我独尊を貫いて、絶えず騒乱を巻き起こしている人物に指摘されたくねェよッ!! などと考えてしまうほしみさんは果たして「終わって」しまっているのだろうか。
ニックネーム 星海航平 at 11:32| Comment(1) | TrackBack(0) | 思想

2005年08月17日

遅延

 昨晩、今更ながらだが、本田透氏の著作「電波男」を読んだ。「オタクは萌えキャラに萌えることによって、恋愛資本主義に汚染された負け犬女どもに勝った!」と主張する怪書である。ほぼ一気に読了。
 おかげで、昨日の睡眠時間は三時間を大きく割り込んだ。うあー。今日は眠過ぎて、終日頭が回らん〜。

 本田氏の主張はなかなか興味あるものだとは思った。ネットをクロールしてみると、この本に関して諸説様々な意見が百出しているようだ。“非モテ”を俎上に上げている blog 辺りは百花繚乱状態である。
 しかし、この本に関するほしみさんの感想を表出するのは止めておこうと思う。ほしみさんも一応非モテ系オタクの端くれで、本田氏の主張する意見の当事者だと思われるのだが、建設的な意見は述べられないと推測されるからだ。どうもほしみさんには、この件に関して発言する権利が基本的にないと思われる。三次元女性との恋愛に関する事例(インシデント)が発生したことがないのはもちろん、キモがられるというマイナス方面の事態すらほとんど惹起したことがないからである。ほしみさんは何事も華麗にスルーされてしまうという、空気みたいな存在であるらしいのだ。
「あんたはいろんなことを避けて通ってるからだろ!」
 という意見もあるようだが、仄聞するにこーゆー事態は本人が避けようが逃げようが、勝手にホーミングして向こうから突っ込んでくるものらしい。それなのに何も発生しないということは、つまりそういうことなのだろう。
 キモがられてはいても、少なくとも相手にその存在を認識されている分、無視されるよりはマシ、という立ち位置もある、とゆーことで。
ニックネーム 星海航平 at 17:22| Comment(1) | TrackBack(0) | 思想

2005年07月05日

流行ってるみたいなので

モヒカン族

 残念ながら、素肌の上に金属製のトゲが植わった革ジャケットを羽織って、タケヤリマフラーのオートバイに跨り、善良なキャラバンを襲うだけの覇気は今のほしみさんにはもうないよ orz
 いや、まあ昔からキャラバンがモヒカン族に取り囲まれて炎上していくのを遠くから生温かく見守ってただけだと言われれば、その通りなんだけど。
 というか、初めての土地に足を踏み入れたというのに、身構えもせずにモヒカン族に馴れ馴れしく近づいていっていきなり斬りつけられ、血だるまになって倒れる善良なキャラバンがここ十年以上途絶えずに現れる方がむしろ驚き。少しは警戒すれ。

# 誰かキャラバンに高橋メソッドでも使って、「ここ(ネットせかい)は危ない」って説明してやれよ。
ニックネーム 星海航平 at 21:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想

2005年06月14日

虚構っぽい現実、現実っぽい虚構

http://piro.sakura.ne.jp/latest/flakes/040trainman.html

 昨日の記事に関連して、 mozilla/Firefox の拡張機能のえらい人、 piro 氏の意見を紹介しておく。
 ああ、そうそう。「“59番”仕込み疑惑」はそもそもほしみさんも ARTIFACT@ハテナ系さんの記事で目にしたんだった。

 ちなみに、企画屋が自分の売りたいコンテンツをネットを使ってプロモーションすること自体はほしみさんは悪いことだとは思わない。これだけ普及したメディアなら、プロモーション手段として使わない手はないからだ。
 でも、問題はその売り方である。「電車男」も「59番」もドキュメンタリー、すなわちノンフィクションとして売っている。「本人がどこの誰と具体的にお教えするわけにはいきませんが、この話は事実なのです」という売り方だ。
 これがマズい。「ドキュメンタリー風の演出」はプロモーション技法のひとつとしてアリかもしれないが、「ノンフィクションを詐称」するのはいかんだろ。ウソはダメだよ。やり方を考えなきゃ。
 テレビでだって、ドキュメンタリーが売りの「プロジェクト X」でフィクションを混ぜちゃったら、「事実をねつ造」とか言われてしまう。
 でも、「矢追純一 UFO スペシャル」や「{川口浩|藤岡弘、}探検隊」(正規表現 (^ー^; )を視聴して、「この番組は事実をねつ造している!」なんて騒ぎ出すヤツはまずいない。これらのコンテンツではあくまで「ドキュメンタリー風の演出」は明らかにスパイスであり、フィクションであることが制作者・視聴者双方の間で暗黙の了解になっているからである。まじギレして、
「公器たるマスコミがこのような虚構を!」
なんて騒ぎ出せば、大人気ない痛いヒトとして周囲から冷笑されるのは目に見えている(ま、それでも UFO 党なんて政党を立ち上げてしまうヒトも存在するわけだけれど (^ー^; )
 矢追ちゃんみたいなキワモノ呼ばわりは嫌だっつーことなのかも知れないが、それにしてもやり方を考えて欲しかった。

 ちなみに、二見ブルーベリー文庫から出ている「萌え体験告白集 オタ恋」にもオタク男とキャリアな負け犬女とのエピソードが登場するが、こちらの方は、
「どこが“体験告白集”じゃいッ!? こんなこと、ぜってェ起こらねェッ!!」
 と断言できる仕上がりになっている。ってか、二十五歳のキャリアウーマンがオタク男に調教されて、同人イベントでメイドコスするよーなツンデレキャラになんかなるわけねーだろッ!! (ひどいオチ
ニックネーム 星海航平 at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想

2005年06月13日

うそをうそと見抜けな(ry

http://echigoya.jugem.jp/?eid=492

 一世を風靡した“電車男”以降、“オタク男と負け犬女の恋愛”がやたらとトレンディな話題になっているわけなのだけれど、注意しなければならないことがある。
 そもそもこうしたムーヴメントは従来からあった所謂“電通的”な“恋愛至上主義”と対極にあるものと考えられがちだが、それは本当のことだろうか?

 だいたい発端であるところの“電車男”からして、醒めた人々の間では“壮大な釣り”であるという評価が定着しつつあるように思われる。電車男は「2ちゃんねるというメディア」をプロモーションに利用したフィクションだというのだ。いちおう“ネット発のノンフィクション”を謳い文句にしている電車男であるが、様々な傍証から勘案して、誰かがムーヴメント全体を意図的にプロモートしていた疑惑が拭えないらしい。“原作”とされる和塩上の“まとめサイト”は元スレの動きからすると妙に素早く活動を開始していたらしいし、生ログから“まとめ”情報が作られる際、スレの趣旨から外れそうな記事は周到に取り除かれていたらしい。そもそも、鉄道各社に電凸をかけた勇者に拠れば、電車男とエルメスのそもそもの馴れ初めであるところの電車内のトラブルは、その事件があったとされる日にはいずこの鉄道会社にも記録が残っていないというのだ。

 越後屋氏が言及する「アルテイシアと59番の恋」も、インタビューをよく見ると、胡散臭いところがある。濃いガノタとされる59番氏が、ホンモノのガノタなら犯しようのない間違いをいくつもやっているのだ。
 例えば、
 59番さんのガンダム知識は、ガンダム好きを自認するアルテイシアさんを超えていた。「マクベの鉱山のおかげでジオンはあそこまで強くなったんですよ」「ランバラルの奥さんのハモンが、昔はマクベの女だったって知ってます?」――そんな会話は、とにかく楽しかった。
 こんな文言がある。この時点でかなりおかしい。
 公式設定に拠れば、ハモンはラン・バ・ラルと内縁関係であるとされている。つまりは情婦(いろ)である。“奥さん”ではないのだ。本来お子さま向けの“テレビまんが”で内縁関係の女性などという生臭い存在が登場したことがガンダムにおけるハモンの画期的存在価値なのであり、重要な点である。ホンモノのガノタなら“奥さん”などと呼ぶわけがない。また、確かハモンは「マ・クベの昔の女」ではなく、ギレン・ザビからラン・バ・ラルへと下げ渡された女だったはずだ。
 また、
 「『なんだったけ、あのハモンさんが乗っていたやつ?』ときいて『キュイ』って答えてくれる人は、頼もしいし、信用できますよね」
 こんな文言があるが、とんでもない話である。ハモンがリュウ・ホセイの乗ったコアファイターに体当たり攻撃されて亡くなったとき乗っていたのはマゼラ・トップ飛行戦車砲なのだ。キュイ揚兵戦車に乗っていたのは旦那のラン・バ・ラルの方である。こんな基本的な間違いを犯す“自称・ガノタ”は頼もしくないし、信頼もできない。
 mixi 内でも、わかってる人は
「どうもあの“59番”とやらは書籍化を前提とした“釣り”らしいぞ」
 ってな噂をし合っていて、実際に本が出たときは失笑を禁じえなかったとか。

 こんな風に、昨今は“ネット発”と称する情報の中に、発表媒体としてたまたまネットを利用しただけの企画がかなり紛れ込んでいる様子なのだ。恋愛至上主義がブームを過ぎたとみた広告代理店が、次のムーヴメントとして“オタク男+負け犬女”の組み合わせを仕掛けてきている可能性は否定できない。
 ……そう言えば、劇場版・電車男の制作に関与していたのは電通のライバル、博報堂だったなァ(遠い目
ニックネーム 星海航平 at 20:18| Comment(1) | TrackBack(2) | 思想

2005年06月10日

めもりんQ

http://d.hatena.ne.jp/zozo_mix/

 たらたらと WEB を巡回してたらたまたま見つけたサイト。まだ全記事を読めてないけど、ちょっと拾い読みしただけでも、かなり興味深い。
 いや、ヲタ向けの話題とか、えっち小説に関する考察とか、ほしみさんの興味に近いものが取り上げられていることがあるのだろうけれど。思わずアマゾンのアフィリエイトで官能小説用語表現辞典を注文しちゃったヨ(笑
ニックネーム 星海航平 at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想

2005年06月03日

恋愛における男女不平等とその原因

http://danjomondai.hp.infoseek.co.jp//thesis/renaifubyodo/renaifubyodo.html

 ネタなんだかギャグなんだか判然としない、恋愛に関する考察。
 文面や方法論は極めて社会科学的な体裁が整っているのだけれど、
基本的にセックスはどちらも気持ちいいので、快楽というベネフィットは(少なくとも挿入後は)男女双方が得られる。
 この辺りで爆笑した。「気持ちいい」とか、身も蓋もない書き方をしてあるのがすてき。そもそもテーマそのものが身も蓋もないものなのだから、方法論として正しいと言えば正しいのだけれど。



 そもそも、恋愛と言う概念は近代になってから“発明”されたものである。日本においても、明治時代になるまで「愛」なる言葉が使われることがなかったのは結構有名な話だ。西洋近代社会から Love という言葉が輸入されてくるまで、前近代時代にあった日本には「愛」なる概念は存在しなかったのである。

 古代社会においては、相手の同意が得られているかどうかに関わらず、嫁は他所から略奪されてくるのがふつうであった。また、平安時代の貴族社会では男女がともに暮らすことはなく、必要に応じて男が女のところを訪ねる通い棔がふつうだったりした。近世まで、日本では姻族関係を重視した婚姻こそが結婚のあるべき姿であり、こんにち我々が考える“結婚をゴールとした恋愛”なんてほとんど存在しなかったのである。

 恋愛結婚が広く敷衍するようになったのは二つの世界大戦を経てからであり、これは急激な都市化を伴う工業化社会の進展が集約化された労働力を必要としていたからである。結婚という社会制度は教育化され、規格化された労働力を社会に効率よく提供するための“生産ユニット構成メソッド”として、再定義されたのだ。そのために、煩雑な姻族関係を伴わない核家族化が社会的に奨励され、その生産手法として“現代的な恋愛”が規定されたのである。かつてあった“家"というバックボーンを失った男女は本能としてあった異性を求める性質の上に構築された“恋愛”なる概念に幻惑されて、それに踊らされているのではあるまいか。……そもそも“本物の恋愛”なるものは実在するのか?

 ことほどさように、現在我々が考える“恋愛”なるものは人間が生来持っている基本的性質、素養ではなく、社会の要請によって案出された“発明品”である。昔からあった「異性を好ましく思う気持ち」を換骨奪胎した“遺伝子組み換え品"と言い換えてもいい。どうしても求めてしまう“自然なもの”ではなく、「世の中の風潮がそうなっているから」と他者から与えられたものなのだから、それに様々な齟齬が内在していたとしても不思議ではない。また、それに耐えられなくなっても当たり前である。昨今の“恋愛結婚しない”社会層の顕現化(晩婚化や少子化)は決して畸形的現象ではないと思う。「恋愛至上主義社会」はそのような危うい面を内包している点はいつも勘案しておく必要がある。
ニックネーム 星海航平 at 23:26| Comment(1) | TrackBack(0) | 思想

2005年06月01日

プロポーズについて

http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/news/20050531ddm013100042000c.html

 本田透氏の言によれば“恋愛至上主義社会”であるはずの現代日本に於いても、妙齢の男性の七割、女性の五割がプロポーズをしたことも、されたこともないらしい。
 ……ううむ、やっぱりそんなもんなのかなァ。
 今イチ反応が弱いのは、もちろんほしみさん自身がその「プロポーズをしたことも、されたこともない」統計群に属するからである。身近な同年代でも、“片付いている”者が少ないので、ほしみさんの実感としても、プロポーズと言う状況はあまり身近な存在ではないと思う。

 ま、もっともほしみさんの場合はプロポーズ以前に、そもそも「好き」と告白したり、されたりしたことすらないんだから、話にならないっつー説が orz だいたい四十年近く生きてきて、
「あー、俺ってこの娘のこと、好きなのかも」
 と自覚した経験がたったの四回しかない辺りで問題ありまくりである。
 毎晩違う相手と恋できる情熱的な人々って、いったいどんな生活を送ってるんだろうな。想像もできない。

 とは言え、例え問題の存在を認識したところで、恋愛は相手があってナンボのものである。自分一人だけではどうしようもない。
 かくしてウロボロスのごとく、思考の無限回廊へと迷い込んでいくほしみさんなのであった。
ニックネーム 星海航平 at 12:46| 思想

2005年05月20日

いまそこにあるみらい

http://garbage.web.infoseek.co.jp/pcp/honbun/blog/top_flameset_top.html

 こわい。こわすぎる。
 じぶんのこどものしゃしんをぶろぐにはりまくっているわかいおかあさんあたりはぜひこれをみて、はんせいしていただきたい。
ニックネーム 星海航平 at 15:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想

2005年05月14日

巷で噂の「ご主人様」に関する考察

http://d.hatena.ne.jp/AKIYOSHI/20050513

 まァ、ヲタ系サイトでは当然話題持ちきりなわけだが、ほしみさん的に膝を打つようないい感じの意見が書いてあるところは少なかった。
 その点、ここは比較的同意できるところが多い記事だった。「『オタクだからこそ女の子を守ります』ってどーよ?」とか、「今回のヤツから文学的に学ぶことはない」とか。
 ……あ。「まほろまてぃっく」はともかく、「ぷちぷりユーシィ」は実は結構名作だと思うよ(笑
ニックネーム 星海航平 at 16:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想

2005年04月06日

ある卒業式における風景

http://d.hatena.ne.jp/azamiko/20050312

 この親御さんは自分の思想信条のために、子供にとっては一生に一度しかない大切な思い出を台無しにしている気がするのだけれど、どうなんだろう?

 確かに、人には思想・信条の自由があるかも知れない。が、現代日本のとある家庭環境に生を受けると言う事実は己が心情とは関わりなく、動かし難い。その運命に関してだけは自由もヘッタクレもない。自分ではどうしようもないのだ。
 そして、ヒトは社会的動物として一人では生きていけないのだから、どうしてもどこかで自分を曲げて、周囲――現代日本社会に合わせていかなければならない。そのとき、自分の内と外との妥協点、落としどころを上手に見つけて、己が心情と社会的評価とをうまくバランスさせるのが大人と呼ばれるための資格なのだと思う。
 自分の親と言うオトナの姿を目にしたお子さんがどんな印象を持ったか、訊いてみたい気がする。

# 記事カテゴリーに「思想」を追加した
ニックネーム 星海航平 at 10:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想

2005年04月05日

“やればできる子”は“やらないとできない子”

http://blog.tatsuru.com/archives/000880.php

 いつも“痴”的な情報にリンクを張ることが多いので、たまにはちゃんと知的な情報にもリンクを貼っておこう(苦笑

 先日亡くなった母がほしみさんに耳タコで繰り返し言っていたのは、
「あんたはやりゃあできる子なんだから」
 だったわけだが、んな言葉、便所でケツを拭く落とし紙ほども役に立ちませんよって話。“できる子”ってのはそもそも“やる子”なのであり、その“やる気”を起こさせる環境要因から考えなきゃダメっしょ、ということらしい。誰もが「俺はやればできる“眠れる獅子”なんだ」と思い込んで、「ま、やりゃあできるんだから、今慌てて努力するこたねェよな」と現状に安住してしまうのはヤヴァいよな、やっぱ。
 ゆとり教育なんてヤツは露骨に「あなたはやればできるはずの子」を前提にしているわけで、悩ましい。
ニックネーム 星海航平 at 13:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想