裏寂れた日陰モノの存在である当 blog にしては珍しく、各方面にいろいろと反響があったので、もう少し非モテについて考察してみたい。
いや、しょぼいブロガーにとってはやっぱりそれなりのアクセス数やまっとうなトラックバック、メールでのご意見は記事を書くための精神的燃料になるんですわ(苦笑)
さて、今まで偉そうに非モテ論を展開した結果、頂いた反響としては、
「何か自分がモテないと勝手に凹んでるけど、非モテっていったいどうしたいわけよ?」
だとか、
「異性を何だかまったく別種の生物みたいに恐れてるな。それなら別にモテなくてもよくね?」
みたいなものがあった。どうも当方とは違い、モテ側から非モテ側への感想である。
こんな意見そのものが非モテをモテと別種の生物として峻別しているわけだが(苦笑)、考えてみるとそもそも非モテなる存在は昨日今日になって急に発生した
新生物だとは判断し難い。生物学、解剖学の観点から考えても、現生人類はここ十万年以上大きな変化がないのだから、その一属性である非モテだって昔から居たはずである。非モテは古来から連綿と続く歴史的存在なのだ。人類の歴史を紐解くと、まれに
生涯童貞を貫いた天才の存在が記録されている辺りにそのことを垣間見ることができる。
しかし、過去に於いては非モテは大した問題ではなかったとほしみさんは考えている。昔の人は別に自分が非モテであっても思い悩むことなどなかったのだ。古来、非モテが存在していたことはほぼ間違いないのに、“古・非モテ”がそのことを嘆く文献等の記録は思いのほか少ないことがそのことを証明している。それが今や一生を左右しかねない大きな障壁として、非モテの眼前に立ち塞がっている。 Blog 検索するとキーワード「非モテ」がヒットしまくるのは前述の通りである。こんな事態が惹起したのはいったい何故だろうか?
謎を解くキーワードは
恋愛結婚であるとほしみさんは推測する。
話題を人類全体に敷衍するとややこしくなるので、ここからは話を日本国内限定にさせてもらうが、現代の日本に於いては
恋愛と
結婚とが密接に関係しているのは万人が認めることだと思う。事実、結婚の形式は恋愛結婚が主流である。
恋愛は個人と個人とが1:1で行うものだが、結婚はそうではない。結婚とは個人と個人とが番い――すなわち夫婦を形成して家族として子を育み、社会の一構成要素として活動することを社会全体として認証する手続きである。社会的な生物である人類が円滑な社会活動のために案出した社会システムのもっとも基本的な要素だ。現在の日本に於いてはごく個人的な私的活動である恋愛と、社会的活動である結婚とが密接に関連しているのである。結果的にどうなるのかはともかく、恋愛できるかどうかが結婚できるかどうかの試金石になっている。
だが、過去に於いてはそうではなかった。明治維新以前の日本では、恋愛と結婚はほとんど別のものであった。太平洋戦争以前でも、ほぼそうだったと断言して構うまい。自身の恋愛感情とはまったく別に、
結婚相手は親や一族郎党が定めた相手となるのが一般的だった。結婚とは家と家との間で定められ、行われるもので、当人がモテだろうが非モテだろうが、たいていの場合、結婚だけはできたのである。
これは社会の構成基盤が第一次産業――農業や漁業に依存していたためだと思われる。第一次産業は大自然を相手に長い時間的スパンで展開される産業である。大自然の前では、個人の能力の多少の差など意味がない。いかに優れた農耕者であっても旱魃があれば手の施しようはないし、海面が沸くほどのいわしの大群が押し寄せれば、ボンクラの漁師だってそれなりの漁果を得ることができる。
こうした社会全体の幸福量を最大化するには、村全体で一致団結して大自然に対抗するほかない。そのための方策として、村社会の構成要素である夫婦、家族は「家」と言う大きな単位で系統立てて構築された。村全体で取り組む灌漑事業を成功させるためには、多少冴えなくても庄屋の息子に嫁があてがわれる必要があったし、漁業船団の人手を維持するために、どんくさい女の子にもそれなりに嫁の口があった。そうしなければ、「家」――社会全体が回っていかなかったためである。村社会は多少品質(モテか、非モテか)に問題があろうが、労働力の数を揃え、長いタイムスパンに耐えていくために夫婦を作り、
子供を産ませ育てさせなければならなかったのだ。本人が持つ恋愛の才能――モテ/非モテの別に関係なく、結婚関係を強制的に構築させる社会的圧力が存在していたわけだ。
しかし、産業革命以降の工業化の進行によって、こうした社会は変質して行った。鉱工業を主力とする第二次産業は自然災害などの影響を受けにくく、またその活動サイクルも年単位ではなく、月とか日単位で区切られることが多い。そうした場で何より求められるのは“均質で能力の高い労働力”である。短期間に、かつ機械的に進められる作業では、個人間の能力差が響いてくるのだ。工場では、仕事に従事する従業員の労働力の質に拠って歩留まりに違いが生じる。きちんと識字能力があって作業マニュアルの意味を読み取れる従業員の個人能力が高く評価され、逆に無能者の縁故による社会的立場の優遇は忌避される。優れた個人の能力の集積が工業化社会に於ける幸福量の最大化に貢献するのである。
こうした工業化社会の要請に従って発明されたのが《核家族》だろう。血縁によって系統立てられた《家社会》と違い、核家族の構成要素は夫婦とその子たちだけである。面倒な縁故のしがらみを切り捨てて、質の高い労働力の生産と育成だけに特化したのが核家族である。
核家族は血縁によって繋がった「家」と言うシステムを切り捨ててしまったので、社会の重要な構成要素である夫婦を構築していた「家と家との関係」という社会的圧力も消滅してしまった。当然、それに代わる社会システムが必要になったわけだが、工業化社会はそこで
非常に安易な方法を選んでしまった。
「お前ら、工場の中でひとまとめにして置いておくと、勝手にお互いに好きになったり、嫌いになったりしてるみたいだから、好きになった同士で夫婦になれや」
この方法である。個人の能力が尊重される核家族社会に於いては一種当然の流れだったのかも知れない。
ともかく現代日本社会は恋愛結婚が結婚の主流となった。今まで結婚と言う社会システムと大きく関わってこなかった恋愛の能力、才能が結婚する――社会で一定の地位を保証されるために必須になったのである。夫婦となって子をなし、それを育てていくと言う、社会の構成要素としての個人に必ず必要な手続きに、「モテる」必要ができたのだ。
従って、恋愛結婚社会に於いて「別にモテなくていい」と決断することは社会的動物である人間の大事な部分を自分から捨ててしまうことと同意である。人として社会的活動を継続していくためには、この決断はあり得ない。恋愛の才能に恵まれない非モテであっても、自分の属する社会に於いて一定の地位を得たいと言う社会的欲求は存在する。だから、「モテたい」と欲望するほかない。
しかし、非モテとはその恋愛の才能が欠如した存在なのだから、その欲望が満たされることはない。
二律背反である。思考の袋小路に迷い込んだ結果、非モテは自身の存在を戯画化して、自嘲するほかないのである。
「(俺|わたし)は非モテだから」
という言葉は、
「わたしは現代社会に於いて一定の地位を得るために必要な基本的能力が欠如した出来損ないです」
という意見表明とほぼ同意である。これは傷ついた魂から滲み出る血のようなものだが、第三者からはどう対処のしようもない。
その意味でも、モテな方々に於いては非モテな連中の自爆ネタは華麗にスルーするようにお願いしたい。
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