そこで、昨日のエントリーに対する補遺として、モテ者が非モテ者に対してよく用いるレトリックに関して、追加考察しておく。
「(オレ|あたし)にもモテてない時期がありましたよ。心配することありません」
この言葉は言外に、発言者であるモテ者に《モテていた時期》と《モテていない時期》――すなわち二つの
従って、この言葉は多くの場合、非モテ者に対して用いても意味のある言葉ではない。
「『蓼食う虫も好き好き』って言葉もありますから、諦めることありませんって」
この諺も非モテ者に対してよく用いられるレトリックであるが、これまた言外に含まれている意味に留意する必要がある。
蓼食う虫も好き好き。ただし、たいていの虫は蓼なんか食わない。確かにゼロではないが、微分するとゼロへと無限に近づいていく値はゼロと近似、すなわちふつうならゼロと考えて構わない。六億円の宝くじに当選することを前提に住宅ローンを始めとする人生設計をまじめに組み立てることなど無駄なのと同様に、最初から《蓼食う虫》と出会える可能性を考慮して恋愛戦争に参戦するのは愚行である。蓼食う虫との出会いとは稀な僥倖のことであり、ほとんどの場合、幸運の女神は冷淡なものである。
「できなくてもやらなきゃならないのが世の中ってものでしょう」
これもよく用いられる表現だが、これまた恋愛戦争の勝利者であるモテ者に特有の想像力欠如に由来する言葉だと思われる。そもそも非モテ者は勝負を始める前に「どうして、モテ者が大した努力もなしにさも簡単そうにできていることを、わたしは顔を真っ赤にして、必死になってやらないといけないんだろう?」という厭戦感、敗北感にすでに捕らわれているものなのだ。やる気が出ないのも当然である。
このとき、モテ者が実際に大した努力なしで簡単に恋愛に勝利したかどうかは関係ない。非モテ者から見て、簡単そうに見えるかどうかだけが問題である。非モテ者とは、何事に関しても必死になってやっているように見える人物だからである。非モテ者はたいていそのことを自覚しており、そんな自分を自己嫌悪している。標記のレトリックはただ単にこの劣等感を刺激するだけで、問題の解決にはなんら貢献しない。
そんなわけで、モテ者が非モテ者に何を言っても無駄である。モテ者にとっては難儀な話だが、非モテ者が自虐的に自分の非モテ話をネタとして展開したときは、華麗にスルーするほか方策はないと思う。










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そういう構図自体が「他者からの評価で自分の価値が決まる。肯定的な評価が得られなくてはならない」という「物語」の上でしか成立しないものに過ぎないのにな。
風体や性格の違いに関わらず、男は女に肯定したり評価してもらってないとダメな生き物に過ぎない。女の側もまた然り。
鍛えた能力は年齢と共に衰えるし、結婚で得たはずの愛もやがては冷める。金持ちと結婚して買い物に狂っても、自分の能力で稼いだ金ではないという負い目は消えず、他者からの妬みも尽きず。結婚相手や子供の能力を自分の誇りとしても、関係が絶たれれば裸の自分が残るだけ。信じていた家族に裏切られて失意のうちに死ぬ者も珍しくない。
国家や民族を誇りとしてみても、過去の先人や同世代の人間が残す偉業と比較しての自らの矮小さは強まるばかりだ。これは平和思想に身を投じた者も変わらない。あてもない理想に賭ける知的エリートとして自尊心を保とうとしても、何も残していない自分の姿からは目をそらせないのだ。
結局のところ、人間なんてちっぽけなもので自我を保とうとしている生き物に過ぎないって事ですかね。裸のまんまじゃ街中を歩けないから「ボール紙」の鎧を着て他人と接するわけですよ。まあ、自分じゃ白銀の鎧のつもりって人も居るんでしょうけど、みんな着ているのは「紙」に過ぎない。そんなもんなんですよ。
だから、「モテ」を「血液型占い」のように話の種とするのはいいんだけど、気にする必要なんかはないと思いますけどね。あんまり意識するのは「俺は女に好かれるから素晴らしい人間なんだ。安心なんだ」と思いたい人達に協力しているだけですからね。
……こういう考え方って冷たいかもしれないけど、まあ参考になればいいかなと。